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鳥取地方裁判所 平成3年(わ)93号 判決 1992年11月05日

主文

被告人は無罪。

理由

一  本件公訴事実は

「被告人は、法定の除外事由がないのに、平成三年九月一三日午後一〇時ころ、○○県<番地略>の自宅において、フェニルメチルアミノプロパンを含有する覚せい剤約0.02グラムを水に溶かして自己の左腕に注射し、もって、覚せい剤を使用したものである。」

というのである。

二  ところで、本件公判においては、冒頭より弁護人から、本件においては捜査段階で被告人に対し違法逮捕が行われたから、本件各証拠はいずれも違法収集証拠であり、ひいて本件起訴は公訴権の濫用に該るとして公訴棄却の主張がなされ、また事実関係においても被告人には右公訴事実は存在しないから、被告人は無罪である旨の主張もなされて、検察官のいわゆる甲号証(その主たるものは被告人の尿中から覚せい剤が検出されたという鑑定書である。)の証拠調請求に対し、不同意意見が述べられた。

三  そこで、当裁判所は、まず被告人が尿の提出に至るまでの捜査手続において、弁護人主張の違法逮捕があったか否かに関し、被告人質問並びに捜査官・医師・看護婦・被告人の妻等に対する各証人尋問、被告人の妻の検察官に対する供述調書、○○警察署内を撮影した写真撮影報告書等の取調べを実施した結果、次の事実を認定した。

被告人は、本件採尿の一一日前は重い十二指腸潰瘍の患者であったこと、採尿一週間前まで入院していたこと、また、現に採尿当日は朝から吐血・腹痛もあって、医師の診療を受けたい気持から、病院に赴いて担当医の来着を待っていたものであるのに、○○警察署の捜査官らが現われて強く署への同行を求め、被告人の明確な承諾もないまま被告人を同病院建物から連れ出し、病院建物から出た所では両側から上腕を掴んで警察車両まで連行したうえ、被告人を車両後部座席に乗せ両脇を固めて○○署に連行したこと、被告人はその後も同署内取調室において「医者に診てもらいたい。病院に行きたい。」と要求したが、これを無視されたうえ尿を出すよう要求されて滞留させられたこと、そして、心理的にも追い詰められた被告人が、刑事課部屋から廊下に走り出て、滞留状況からの脱出を試みた際には、足を払われて転倒させられ、取押さえられて取調室に連れ戻されたこと、このように被告人は捜査官から終始執拗に尿の提出を求められたのであるが、刑事二課長ら捜査官においては、前記のような被告人の病歴を知りながら、被告人の病状は軽度のものであるとの素人判断ないしは仮装のものであるとの独断のうえに立って、採尿まで約四時間に亘り尿の提出を求めて被告人に対する滞留を強行したものであること(なお、令状による逮捕までの拘束時間は約六時間半であった。)。

四 以上の事実が認められたため、被告人に対する令状によらない違法な逮捕があったものと認定し、要旨

このような逮捕は、基本的人権たる身体・行動の自由を完全に奪うものであり、また、病人看護に関する社会的人道的な一般通念にも著しく背馳するものであるから、憲法三三条の逮捕に関する令状主義の精神を没却する重大な違法といわなければならないうえ、本件における強制採尿令状の請求自体、このように重大な違法性を帯びた逮捕を事実上利用し、それに依拠したものであったから、憲法三一条の適正手続の精神に違反する。その結果、本件採尿自体も、違法逮捕と目的を同じくし違法逮捕を直接利用したものとして、憲法三五条及びこれを受けた刑事訴訟法二一八条一項の所期する捜索・押収に関する令状主義の精神を没却する重大な違法性を伴うとの評価を免れることはできない。また、一般に覚せい剤使用事犯における捜査の実情に照らして、本件のような病人に対する将来の違法逮捕を抑制する必要も大であるといわなければならないから、本件尿に関する鑑定書はその証拠能力を否定されなければならない。

との理由を付し、平成四年七月七日付け決定をもって、検察官の証拠調請求にかかる尿の鑑定書及びこれの作成の真正を立証するための鑑定証人の証拠調請求をいずれも却下した(理由の詳細は同決定書参照)。

五  そして、その後さらに検察官から、前記鑑定書に代る補強証拠として、被告人が別の機会の覚せい剤注射に用いたとされる注射器と該注射器から覚せい剤が検出されたとする鑑定書等の証拠調請求がなされ、当裁判所は、これらについても、要旨

これらの証拠物、鑑定書等は、検察官の主張通りとすれば、本件で使用したとされる覚せい剤と「同一の覚せい剤」が、被告人により所持、使用されていた(しかし、これらは罪の成立関係において、本件とは全く別の事実である。)こととなる点において、本件使用事実との間に自然的関連性が存するもののようであるが、本件訴訟における要証事実の核心たる「平成三年九月一三日午後一〇時ころ、○○県<番地略>所在の被告人自宅において自己の左腕に注射した」という本件「使用」事実につき、自白から独立して一応これを証するという程度にはほど遠いといわねばならないし、また、事柄の性質上(前記別件の使用事実ならともかく)本件「使用」事実につき自白の真実性を保障する程度のものともいえないことは明らかであるから、自白を補強するに足りる証拠であるとすることもできない。

として、同年八月二六日付け決定をもって、これを却下した。

六  なお、判例は、自白を補強する程度に関して「自白にかかる事実の真実性を保障する程度」をもって足りるとしているのであるが、これを本件に即していえば、要するに、その証拠により、前記日時場所における「注射」という自白事実が真実であると確信させるに足り(自白自体で確信を抱かせるに足りる場合も含む。)、かつまた、その確信が担保されているといえることであると考えられるから、判例の立場に立つ場合、検察官が、「前記注射器・その鑑定書等と総合すれば、自白を補強し得る」と主張する被告人の腕の注射痕の写真撮影報告書や被告人の妻の供述調書等を加味するときは、その補強程度が、この求められる程度に達しているかどうかを検討しなければならない。

そこで、まず、被告人の腕の注射痕の写真撮影報告書を検討するに、これは平成三年九月二〇日に被告人の左腕の注射痕を撮影したものであるが、これによっても該注射痕が果たして何時の注射の痕なのか、また何を注射した際のものであるのか(被告人は自白調書の中で動物用の興奮剤も注射していた事実を述べている。)明らかでないから、病気療養中でもあった被告人がなんらか薬物の注射を受けていた事実(九月三日、四日の両日は絶食して点滴を受けていた事実が認められる。)を証明するに止まるものかも知れないのである。また、被告人の妻の供述調書は、妻において前日被告人の注射しているらしい様子を見、当日被告人が屑入れの中からビニール袋を取り出し、その中に入った覚せい剤様の物を見せられたというのであるが、これについても、それが仮に覚せい剤(鑑定がないから認定は困難である。)であったとして、果たして被告人が当日これを使用したか否かについては触れられるところがないのである。

いずれにしても、前記注射器とその鑑定書を含め、これらの証拠は日時場所等を含めた本件「注射」事実とは直接関係のない事実に関する証拠といわなければならないうえ、自白による心証が後記のとおりであることに照らせば、未だ本件「使用」事実が真実であると確信させるには到底足りないし、まして確信を担保するに足りるともいえないのである。

「被告人の尿の鑑定書がなくとも、前記注射器とその鑑定書等とがあれば、被告人の腕の注射痕の写真撮影報告書・被告人の妻の供述調書等他の証拠と総合することにより、十分補強し得る」とする検察官の主張は、右述の通りこれらの証拠が使用の日時・場所・方法等を含めた本件「使用」に関する証拠とするに足りない以上、それらは単に被告人の覚せい剤使用の習癖を窺わせるに止まるものであるに過ぎないから、自白を補強するものたり得ないというべきであり、採用の限りではない。

七  検察官は、その後さらに、被告人の検察官調書等自白調書の証拠調請求をしたので、当裁判所は弁護人の意見を聴いたうえこれを採用して取調べ、このいわゆる乙号証の取調べにより前記訴因事実に沿う一応の心証の得られることを理解したのであるが、しかし、その供述内容を子細に検討してみると、検察官調書は警察官調書を引用するだけの中身のないものであるし、訴因事実に沿う心証を得ることのできる警察官調書(平成三年九月一九日付け)も、未だこれを確信させるに足りるものとは認められない。ことに、注射の動機について、被告人は、「一三日夜、妻が実家に帰ってしまったため、イライラして注射に及んだ」旨を述べているのであるが、そもそも、同じ調書中で「一三日のことはあまりはっきり覚えておりません。」とも述べており、その晩妻との間にどのようなやりとりがあって妻が帰ってしまったのかも覚えがない程記憶が不明確であることが認められるうえ、その夜被告人はその母と共に妻の実家に赴き、妻に懇願して、一緒に帰宅させている(被告人の妻の検察官に対する供述調書)のであるから、この様な冷静な態度がとれた点に鑑みると、被告人が言うように当日は注射していないのではないかと思わせる節があり、また、右のように、妻を実家に迎えに行ったのは一三日夜であったことが認められるにも拘わらず、被告人は前記警察官調書では翌一四日朝に妻を迎えに赴いた旨述べているから、同調書中の被告人の供述にはその記憶の正確性や時間的事柄(日付け)の認識について全面的には依拠し難い疑点があるというべきである。

そうであれば、本件訴訟においては、訴因事実につき自白(但し、本件公判における被告人の供述は否認である。)によっても右程度の心証を得るに止まる以上、既述のような不十分な甲号証をもってしては、未だ自白を補強するに足りる証拠ありとすることはできない。そもそも、犯行(があったとされる日の)翌日の違法逮捕の有無をめぐり、被告人は覚せい剤の影響により当日の記憶を完全に失ってしまっているのではないか、とまで述べて、被告人に薬物の影響が顕著に現われていたことを強調する検察官が、犯行(があったとされる日の)前日にも同剤を使用した旨述べているような被告人の自白調書の信用性を主張するのは矛盾ともいえるのであって、かかる場合にこそ確実な補強証拠を必要とするというのが法の精神というべきである。

八  なお、自白により訴因事実に沿う一応の心証が得られるのであれば、これを補強する甲号証はその訴因事実と直結するものである必要はなく、間接事実を証するものであっても複数の証拠が相合して自白を補強するに足りるものとなることのあることは勿論である。しかし、いわゆる甲号証を取調べた後でなければ自白調書を取調べてはならない旨を規定する刑事訴訟法三〇一条の趣旨は、自白偏重の弊を排すべく、自白の影響を意識的に排して補強証拠をまず優先的に吟味させようとすることにあり、ひいて、補強証拠の自白からの独立性とともに、全面的には自白に依拠しないそれ自体の証明力をも要請しているものと思われる。したがって、本件のような、同一人が他に同様の犯罪行為をなしている疑いがあり、それとは区別した本件訴因事実の立証が求められている場合において、複数の間接証拠が合しても、単なる行状・習癖・生活態度(本件においては覚せい剤使用の習癖)等が窺われるに止まり、最低限証拠として訴因事実自体を指向・指示する関係(例えば当該「使用」自体に用いた器具や共に注射した者の尿の鑑定あるいは当該「使用」の目撃状況等に関する証拠等の様な当該「使用」に論理的に結び付いている関係)が認められないときには、自白により得られる心証がいかに確実なものであっても、補強証拠たり得ないものというべきである。因みに、尿の鑑定は、その者の体内に覚せい剤が存在したという事実を証するものであるから、覚せい剤使用の事実そのものと直結する証拠資料である(但し、覚せい剤の通常の体内保有期間に照らして、鑑定のみでは使用日時が限定されず、ある程度大まかなものになってしまうが、〔期間中の最終使用事実としての〕使用事実と直結する。)ので自白の真実性を保障する程度に欠けるところがないのである。

右のように解しなければ、本件の如く違法収集証拠である旨争われた直接証拠が、長期間の審理を経てようやく排除されるに至った場合においても、検察官にとっては単なる行状・習癖・生活態度等に関する証拠の収集は困難なこととは思われないから、容易に自白を補強し得ることとなり、その結果何ら痛痒を感じることなく有罪立証に成功することとなろう。結局、違法逮捕は事実上立件に重大な役割を果たした(そもそも自白そのものが、違法逮捕に始まる身柄拘束なくしては、その存在自体が疑わしいものと思われる。)にも拘わらず、単にその違法を宣言されたに止まり、その果たした重大な役割を結果的に肯認され、ひいて、将来における違法捜査の抑制にも何ら資することなく、却ってこれが肯定的に受け止められる状況をも残して、結局本件同様の違法逮捕が繰り返される結果を招くこととなると思われる。

九  なお、弁護人は、本件における違法捜査はひいて本件起訴をも違法ならしめるとの主張から、本件につき公訴棄却の判決がなされるべき旨の主張もしているが、前記認定の違法捜査があったとしても、起訴不起訴に関する検察官の広汎な裁量権に照らして、本件公訴の提起自体が、例えば職務犯罪を構成するような、裁量権を逸脱した極限的な場合に該るものとは認められないから、弁護人のこの主張は採用の限りではない。

一〇 よって、本件公訴事実については、その証明がないことに帰着するから、被告人に対しては刑事訴訟法三三六条にしたがい無罪の言渡しをすることとし、主文のとおり判決する。

(裁判官小池洋吉)

《参考・決定》

主文

A作成の鑑定書及び証人Aの各証拠調請求は、いずれもこれを却下する。

理由

取調べ済みの各証拠ならびに被告人の当公判廷における供述によれば、次の事実が認められる。

1 被告人は、平成三年九月三日から七日までの五日間、十二指腸潰瘍で○○病院に入院していた。入院時の症状は、みぞおちの痛み(加えて、前日は朝から〔吐血を伴う〕嘔吐を繰り返し、当日も吐血したとの訴えだった)を強く訴えるというものであり、内視鏡検査の結果、出血は止まっていたが十二指腸の前の壁から後ろの壁にかけてかなり大きな潰瘍があることが判明した(担当医B医師の証言によれば、重い十二指腸潰瘍であった)。入院後、被告人は、三日、四日の両日は絶食となり、五日は流動食、六日は五分粥という状況であったが、全身状態がよく(但し、何か処置した方がいいのではないかと看護婦から報告があったほど精神的にイライラしておかしい状態があり、B医師は、何か薬物の禁断症状ではないかと思った)、そのうえ五日、六日の両日、夜間勝手に外出したりしたため、同月七日の朝退院させられたが、その後の食事についてお粥など柔らかいものを摂ること、投薬を受けた薬を服用すること、九月一八日に(内視鏡)検査を受けに来ることを指示されていた(以上医師B、被告人の妻Hの各証言及び被告人の供述)。

2 被告人は同月一四日(土曜日)朝二回吐血し、腹痛もあったため、検査日まで待てないと考え、○○病院に診察を受けに行くつもりとなった。

3 同時に、被告人は、覚せい剤前科三犯を有し、最近再び同剤使用に手を染めていたが、妻も覚せい剤を使用しているとの疑いを持つに至っていたことから、自らの使用を止め、また妻にも止めさせるため、警察に相談したい気持があり、一週間位前に電話で○○警察署刑事二課の係長C警部補に相談にのってほしい旨依頼していた。

4 被告人は、前同日(九月一四日)午後零時半ころ妻を伴ってまず○○警察署に赴き、同署玄関先でC係長に会って、右相談をしたい旨を話した。同係長は被告人に、調べるから二階取調室に上がるようにと促したが、被告人はまた腹痛を覚えたため、医師の診察を受ける必要を感じて病院に行きたい旨を述べ、妻と共に同署を辞去した(同係長は、事前に被告人の入院事実を知っており、病院に行きたいと言っている者を、令状があるわけでもないのに、止めることはできないと判断したもの)。

5 被告人は、同日午後一時半ころ妻と共に前記○○病院に赴き、入院させて欲しい旨述べたが、被告人の担当医B医師は回診中であったため、当直看護婦からそのままロビーで待つように指示され、同病院一階ロビーで待ち始めた。まもなくB医師が到着して診察が可能となったので、看護婦が被告人を呼び入れるべく声をかけたが、被告人はちょうど同ロビー内の公衆電話で電話中であったので、看護婦は電話が終わるのを待つべく、救急室(休日の診察室)に入ってしまった(B医師及び看護婦Dの各証言)。

6 その後、被告人が電話をかけているさなかの午後二時前ころ、前記C係長が、ほか三名の捜査員を伴って同病院に現われ、電話を終わった被告人にとにかく署まで来るように述べて、医者に診てもらいたいとの被告人の意向も意に介さず、強く同行を求めて、明確な承諾もないまま被告人を同病院建物から連れ出し、同病院建物の外ではC係長他一名が被告人の両側から上腕をつかむようにして駐車していた警察車両まで連行し、チャイルド・ロックをかけて内側からは開けられぬようにした後部座席に乗り込ませたうえ、被告人の両脇にも捜査官が乗り込んで○○警察署へと向かった(捜査官の以上の行動は、C係長から前記の経緯について報告を受けた○○警察署刑事二課長E警部の指揮によるものであった。同課長は当日閉庁土曜日であったが、若い捜査官を呼び集めたうえC係長と共に病院へ赴かせたもの)。

7 ○○署において、被告人は、二階刑事課六号取調室に入室させられたうえ、最初C係長、次にF巡査部長、G巡査部長らから、茶を飲んで尿を出すように説得され続けた。はじめ朝の吐血以来水を飲んでいなかった被告人は、自ら水を求めて、出された湯呑みの茶を少量口にしたが、採尿に十分な量ではなかったため、さらに飲むように強く求められ、それ以上は「十二指腸潰瘍で飲めない」と断っても、ときに「なんで飲めれんか」などと大声を出されるなどしたため、時間をかけて全部で一杯弱を飲んだものの、尿意を催さず(執拗に排尿を求められて二、三回トイレに立って排尿の真似をしたが)、尿の提出には至らなかった(「飲め」「飲めない」のやりとりは妻Hの証言によっても認められる〔平成四年四月一三日付写真撮影報告書によって認められる刑事課取調室の構造、壁の材質、当時のドアの開閉状況などに照らし、「ある程度聞こえてきた」旨のHの証言は信用できる〕)。

8 被告人は、○○署に到着後も腹痛を覚えていたが、六号取調室において、「月初めに入院していた身だし、身体がえらい(「つらい」の意)ので病院に行きたい」旨を述べ、ときに「行かせてくれないと訴えるぞ。先生は命も危ないと言っている。なぜ、行かせてくれんのだ。」などと強く要求したりもしたが、「病院に行っていたのに、なぜちゃんと診てもらわなかったのか」とか「尿の検査後に行けばよい」などと言われ、捜査官に取り合って貰えなかったことから、どうしてもこの状況から脱したいとの気持が強くなり、(その意思はなかったが)排尿する旨を申し出て、G巡査部長に伴われ六号取調室(大きな刑事課部屋の中にある)から出て、刑事課部屋から廊下に出るや、建物の反対側にある交通課の方に走ったが、近くにいた警察官から足払いをかけられて転倒し、すぐに数名の警察官に取り押さえられ、腕や後首をつかまれて六号取調室に連れ戻された(一度ドタバタと大きな音がしたことは妻Hの証言によっても認めることができる。ところで、G巡査部長は当公判廷で証言し、排尿すると申し出た被告人が、結局尿を出さず、トイレを出て二、三歩反対側の交通課の方に行きかけたので、大きな声で「そっちは違う。お前どこへいくんだい。」「そこは交通課だ。刑事課はあっちだ、お前の行くところは向こうだ。」と指示しただけである旨を述べた。しかし、覚せい剤前科が三犯あり、また、以前○○署の刑事に暴力団を脱退させてもらったことがあるほど同署と旧知の関係にある被告人が、間違って全く反対側の交通課に入りかけるなどということがありうるか疑問といわなければならない。そして、平穏裡に、ただ方向を間違えて二、三歩逆に行きかけたというだけのことで、大声を上げ、前記のような「大騒ぎ」をし、被告人もこれに対して大声を出したなどということの不自然さも覆いがたい〔G巡査部長にとって被告人が交通課に入ることに何の痛痒があるのであろうか〕。トイレ出口から交通課の方に二、三歩行きかけた地点といえば、平成四年四月一三日付写真撮影報告書添付写真5、6によって認められる刑事課、トイレ、交通課の位置関係からすると、刑事課からはかなり離れる〔一〇メートル以上あるようにみえる〕が、交通課にはあと二メートル位の距離にあると思われるから、同証言は、被告人が刑事課からその地点まで至ったゆえんを同課から走って逃げてきたとみられることを嫌ってのものとみる余地が大いにあるというべきであり、信用することができない)。

9 被告人が尿の提出を拒み続けたため、E課長は同日午後四時前ころ、強制採尿もやむなしと判断して、被告人の腕の注射痕をポラロイド写真に撮影するなどして作成したもの等数通の捜査報告書等を添え、被告人に対する強制採尿令状(捜索差押令状)を請求し、午後四時五〇分ころ同令状の発付を得たうえ、同六時一〇分ころ被告人を○○病院に連行させ、同病院医師により強制採尿に及ぼうとしたところ、被告人も観念するところとなって自ら排尿してこれを提出するに至った。

10 被告人は、右提出にかかる尿の鑑定結果により請求・発付された逮捕状により、同日午後八時四二分逮捕されたが、採尿後に○○署に戻った後逮捕されるまでの間も大きな声で病院に行かせろと要求していた。

11 当日被告人は前記の吐血や腹痛のため、朝から食事を摂っておらず、夕食として出されたお粥には箸を付けていない。被告人は、逮捕後○○署内の留置場に留置されたが、相変らず腹痛を訴えていたため、留置管理係官は前記○○病院のB医師に被告人に対する薬剤を調整して貰い被告人に与えた。

以上の事実が認められるのであるが、補足すれば、

まず、被告人が病院に行きたい旨を強く求めていた事実は、C係長の「確かに、医者に行かせろと言って、大きな声はしておったかも知れませんけれども、外に出るというようなことはありませんでした。」等の証言によって明らかに認めることができる(F証言によっても窺える)。E課長は、被告人が「入院していたのは事実だから、病院に確認してくれ」と要求するので、電話で○○病院やB医師にその点の照会をしたが、被告人から病院へ行かせて欲しいと要求された事実はない旨証言する。しかし、同課長が真に被告人の症状は覚せい剤の中毒症状に過ぎないと考え、また、被告人は病院行きを希望してもいなかったというのであれば、午後二時半にしたという看護婦に対する電話照会で足りたはずであるのに、その後も午後七時半にB医師に直接照会(その時点で、被告人の病状に対しては投薬で足りると思う旨の回答を得たもの)できるまで頻繁に電話している事実は不自然である。そもそも、何故それほど熱心に病院側に照会したかについての理由としては、被告人が、病院行きを要求したからであると考えるのが自然であって、そうではなく、単に過去の入院事実の確認だけを求めたからであるというのは、なぜそのような限定された要求にとどまったかの点の合理的な説明もなく、いかにも不自然の感を免れない。

また、被告人は、○○病院から○○署に連行されてからは捜査官に腹痛を訴え続けていた旨を供述しており、捜査官側も、被告人は体調が「えらい」と述べていた旨証言しているところであるが、被告人の訴え自体捜査を逃れるための仮装のものとすれば、逮捕され、名実共身柄拘束に入った段階では、仮装の訴えは無益と知るはずであるのに、被告人が逮捕後も強く腹痛を訴えていたことは明らかな事実であるから、逮捕後、被告人の腹痛の訴えを受けて、捜査陣とは別組織である留置管理係官はこれを無視することができず、前認定の投薬の手筈を整えたものと認めるのが相当である。そうとすれば、被告人の病歴に照らし、被告人はその主張のとおり逮捕前から腹痛を訴えていたと認定するのが相当であり、逮捕前の被告人の腹痛の訴えを否定する捜査官らの証言は信用できない。

捜査官証人は、被告人が「妻に殺される」などと述べて「幻覚」状態にあり(C証言)、あるいは署内の部屋の位置関係も分からない「錯乱」状態にあった(G証言)とまで証言する。まず、被告人がC係長に○○署玄関先で会った際の言動が「幻覚」の根拠に挙げられるが、被告人は、前日実家に帰ってしまった妻を被告人の母親と共に赴いて懇願して連れ帰っており、「殺される」とまで妻を疑っていた事情は窺えないばかりか、同係長はその場はさほどの緊急性も感ずることなく、前認定のとおり被告人の言うままに病院へと向かわせているのであるから、そのこと自体、それほどの「幻覚」が果たしてあったものかを疑わしめる事情というべきである。また、当日被告人と相対して会話している第三者として、○○病院の看護婦Dがいるところ、同証人は、被告人のその際の様子を尋ねられ、記憶にない旨を答えているのであるから、少なくとも「錯乱」などという異常な様子〔あれば当然記憶に残るはずである〕でなかったことは明らかである。ちなみに、「錯乱状態」に陥った者からの採尿について問題となった判例〔最高裁平3.7.16第二小法廷決定〕のケースでは、暴れ、殺してくれと口走り、全裸となるなどの状態をもって「錯乱状態」としているのであって、本件がそのような場合でないことは明らかである。そしてE証人は、同様に被告人の「まともじゃない」「異様」な状態を強調し、強度の幻覚症状が出ており、危険であると判断した旨証言するが、他方では、被告人が症状を仮装し、病院に詐病で逃げ込む策を弄していたかの証言もなしているのは、矛盾も甚だしいのであって、信用しがたいところである。

仮に、被告人がその覚せい剤使用により精神作用にいくらかの異常があった(前認定のとおりの被告人の入院中の精神状態や妻に対する猜疑的態度等に照らしこの点は否めないと思われるが、潰瘍の治療を受け、また覚せい剤使用も止めたいとの一貫した考えの下に行動していたことも認められるのであるから、正常な思考も十分に働いていたことが認められる)としても、一週間前に入院していたという病歴の明らかな者が、腹痛等を訴えて病院へ行くことを求めている場合には、たとえ犯罪の嫌疑があっても、任意捜査によっている限りは、刑訴法一九八条一項但書きにより、いつでも退去が許されなければならないはずである(その点で、C係長の当初の判断には正しいものがあった)。もちろん、捜査官側に「診療を受けさせる義務」などないことはいうまでもないが、だからといって、被告人が受診のため退去するのを阻止することは許されないものというべきである。けだし、病人が自らの身体について自らの望む医療を受けることは、人間としての身体の自由、行動の自由の最たるものであり、自らの望む医療を受ける権利として十全に尊重されるべきだからである。これをも「任意捜査」の名のもとに否定することができるとしたら、これらの自由が否定されることのない真の「任意」の領域は一体どこに残されるのであろうか。

総じて、その他○○病院からの連行時や○○警察署における取調べ時の被告人の動静に関する捜査官側の証言は、被告人の供述(その立場に照らして、誇張や歪曲が含まれていることも考えられるが、内容はほぼ一貫していて、自然である)と大きく食い違うだけでなく、重要な点において捜査官同士矛盾していて、信用できない。

(そもそも、このように赤手空拳の市民を予めの計画に基づき任意同行して警察署内で調べるに際しては、強制にわたらないことが重要なポイントであり、予想される将来の挙証対象でもあるのだから、ビデオ録画やテープ録音等によってなんらか客観的な裏付をとっておくべきではなかろうか。偶然の突発的事態とか全く準備の不可能な場所でのことならいざ知らず、本件のような予めの計画に基づく警察署内における捜査場面では、完璧かつ周到な準備を求めることは無理としても、人権に関わる重大局面であること〔憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である〕に心して、なんらか客観的立証を試みる余地は十分にあったはずである。今や安価かつ手近にこれらの機器を利用できる時代であり、いわば一挙手一投足の労で足りるこれらの客観的立証方法をあえてとらず〔財政上の困難などということはこれを拒む理由として吾人の納得しえないところである〕、捜査官多数の供述のみによる迂遠な方法をとるほかに道がないとしていること自体、現今社会の通念からすれば、むしろ不審の感を抱かせ、公正を疑わせるものというべきである。犯罪との戦いにはある程度の強さは当然必要であり、真実追究のため被疑者と強く対決する姿勢も必要であることは、社会もこれを肯認するところであるから、捜査官が任意捜査の限界判断について自信をもって活動しているのなら、なんら秘匿するに及ばないはずである。また、もし、自信に欠けるところがあるのであれば、なおさら捜査の適正を客観的に担保する必要があることとなる〔○○病院における「任意同行」から採尿までの四時間余りという時間は、一部始終をすべて「通し」で機器記録することも不可能とは思われないが、一部であっても、例えば、同行を求めた際の被疑者とのやりとりの様子や、また、任意に注射痕を写真撮影させたというのであれば、その様子を、あるいは、排尿するからと被疑者が水を求めたり、トイレに立ったというのであれば、水を飲むまでの経緯や、取調室からトイレへの行き帰りと排尿の様子を、また、本件における「病院」のようにその被疑者に特殊ななんらかの要求をしていたのであればその様子を、それぞれビデオ録画ないしテープ録音し、本件のように被疑者の身体状況、健康状態が問題となりうると考えれば、その顔色・血色・表情や姿勢、態度などをビデオ録画するなど、そのケースに応じて「客観的に担保」される程度で足りるのであるし、それが仮に音声のみの録音であれば、さして捜査官が公衆の耳目に晒される感も強くないであろう〕。)

以上の事実によれば、被告人は、一週間前まで入院していた、病み上がりの病人であり、また、一一日前は重い十二指腸潰瘍の患者であったうえ、現に当日は朝から吐血・腹痛もあって、医師の診療を受けたい気持から、病院に赴いて担当医の来着を待っていたものであるのに、捜査官に強く同行を求められて、両側から腕をつかまれるようにして連行されたうえ、車両後部座席に両脇を固められて○○署に連れて行かれ、その後も医者に診てもらいたい、病院に行きたいと要求したが、これを無視されて滞留させられ、執拗に尿の提出を求められたものであって、捜査官においては、そのような被告人の病歴を知りながら、被告人の病状は軽度のものであるとの素人判断ないし仮装のものであるとの独断のうえに立って、被告人に対する連行・滞留を強行したものであることが認められる。以上の状態は被告人に対する違法な逮捕があったものと認定するに十分である。

そこで、被告人の違法逮捕が、その後強制採尿令状の発付された後に採尿された尿に関する鑑定書の証拠能力に影響するかについて考察する。

なるほど、被告人に対して右令状が発付された以上、被告人に対しては、その意思に反し、その身体を侵襲してまでも採尿することが認められたのであるから、それ以前にいかなる違法があっても、以後の採尿について影響するところはないとも考えられるかも知れない。しかしながら、ことの実質をみてみれば、被告人は十二指腸潰瘍で身体が衰弱しており、加えて朝食も昼食も摂らず、痛みをこらえる状況下で、採尿まで四時間あまり長時間執拗に尿の提出を求められ、前記のような経過で心理的にも追い詰められて、自ら取調べからの脱出を試みても足払いをかけられ転倒させられて、取押さえられ連れ戻される等して、その意思を制圧され、違法に滞留させられていたところへ、右令状が発付され、ついに抵抗する気力を失って、採尿に応じたものである(したがって、被告人がその自由な意思に基づき任意に尿を提出したものとは到底認められない)。右のような逮捕の態様は、基本的人権のうち最重要の権利といえる人の身体・行動の自由を完全に奪い、病人看護に関する社会的文化的な一般通念にも著しく背馳するものであるから、憲法三三条の逮捕に関する令状主義の精神を没却する重大な違法といわなければならないうえ、右の経過(なお、強制採尿令状の請求には、違法逮捕中に撮影された前記ポラロイド写真等が重要な疎明資料となっていることが窺われるが、その他にいかなる資料が用いられたかについて、検察官は明らかにしない)に照らすと、この違法な逮捕がなければ、事実上強制採尿令状の発付は実現せず(検察官において、右の因果関係の遮断を立証しない以上、そう認定せざるを得ない)、被告人も採尿に応じるはずはなかったのである。そもそも、強制採尿令状の請求自体が、右のように重大な違法性を帯びる逮捕を事実上利用し、それに依拠したものであったから、憲法三一条の適正手続の精神に違反する手続によったといわざるを得ないのであり、その結果としての本件採尿自体も、右の違法逮捕と目的を同じくし(覚せい剤使用事犯の捜査実務として、採尿がその目的自体であったといえる)、違法逮捕を直接利用したものとして、憲法三五条及びこれを受けた刑訴法二一八条一項の所期する令状主義の精神を没却する重大な違法との評価を免れることはできない。また、一般に覚せい剤使用事犯においては、犯人自身の身柄を確保し、その尿を採取することによって初めて立証にこぎつけることがほとんどであることに鑑みると、捜査陣にとって任意同行の名の下に違法をあえてしても身柄をとろうとする誘惑は極めて強いものがあるはずである。そうだとすれば、本件のような直近の病歴と現在の病状とを有する病人に対する将来の違法逮捕を抑制する必要も、病人看護に関する社会的文化的な一般通念に照らし、また大であるといわなければならない。

そうであれば、本件尿に関する鑑定書は、右重大な違法の影響を直接受けるものとして、またそのような違法捜査を抑制する必要からも、(その作成の真正についての立証を云々するまでもなく)その証拠能力を否定するべきである。

よって、主文のとおり決定する。

(裁判官小池洋吉)

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